はせ甚
150有余年の歴史
歩みは文明開化とともに・・・
文久2年(1862年)
初代「久保田松之助」が、文久2年に料理屋を開業。
横浜で生糸の取引業を営んでいた、はせ甚の創業者 久保田松之助は、外国人の肉食文化を間近に見聞。
日本でも必ず肉食文化が定着するであろうと、文久2年に料理屋をはじめた。
明治5年(1872年)
日本橋長谷川町(現在の日本橋堀留町)に店舗を移し、屋号を長谷川町の「長谷」と松之助の幼少期からの愛称であった甚さんの「甚」をとって「長谷甚」と命名した。
昭和19年(1943年)
その後を引き継いだ二代目久保田松之助は、先代の味を守りつつ長谷甚を続けるも、大戦下の食糧統制により、やむなく暖簾を下すこととなる。
昭和23年(1947年)
戦後、三代目久保田理真子が苦難の末、営業を再開。再び暖簾を掲げ、新しい時代の幕開けとともに歩みだした長谷甚をダイナミックに展開する。
昭和30年頃(1850年代)
当時はまだ知名度も低く供給量の少なかった松阪牛を仕入れることに成功。
高価であっても高品質で美味しい牛肉を探し求め、当時はまだ知名度も低く供給量の少なかった松阪牛に辿りつき、松阪のひとつの牧場に足を運び松阪牛を仕入れることに成功。
昭和33年(1958年)
支店経営の第一号として、渋谷 東横のれん街に松阪牛の仕入れ先看板を掲げた販売店をオープン
昭和35年頃(1960年代)
牛鍋を「すき焼き」に替え、お座敷で焼きながら提供するサービスなどで付加価値を高め、すき焼き割烹の店として売り出す。テレビで紹介するなど、当時としては話題性のある試みなどで、すき焼きを高級料理として浸透させた。
昭和40年(1965年)
本店を日本橋堀留町から麻布飯倉片町へ移す為、本社ビルを新設。
東京オリンピックを控え、観光客も呼び込めるようにと国際観光レストラン協会に加盟。
久保田食品化学株式会社という会社組織にし、食肉の加工販売も可能になり、佃煮や味噌漬け等の商品の製造販売を開始する。
昭和41年(1966年)
本店を堀留から麻布へ移し、屋号を「はせ甚」に変える。
麻布本店は、1階 日本料理、2階 お座敷で網焼き・すき焼き・しゃぶしゃぶ、3階・4階 大宴会場、5階を事務所とし、地下1階には精肉加工場、佃煮工場なども併設、産地直送の和牛をさばき、保冷庫で熟成させ提供する本格的和牛専門レストランとなる。
屋号も女性の感性で「はせ甚」とやわらかいイメージに変えた。
その後の店舗展開
・渋谷東急文化会館(現在の渋谷ヒカリエ)に小上がりの座敷が特徴のすき焼き店を出店
・日本橋三越食品売り場、新宿小田急食品売り場に高級精肉店「はせ甚」を相次いで出店
・渋谷パルコPart1、渋谷東急プラザ、味のグルメ新宿小田急マイシティーに「はせ甚」を相次いで出店
・佃煮専門店を羽田空港内に出店
昭和61年(1986年)
4代目に代は変わり、新業態の展開を考え、渋谷パルコPart1の全面改装時に「はせ甚」から新業態「紗舞璃」をオープンする。
しゃぶしゃぶを、若い世代に気軽に味わっていただきたいと、高級感あふれる空間でリーズナブルに提供する。
昭和62年(1987年)
・日本橋三越本店の食品売り場に佃煮専門店をオープン
・小田急町田店にお手頃価格の精肉販売店「フレッシュミートはせ甚」をオープン
はせ甚の高級和牛からリーズナブルな牛肉、鶏、豚をはじめ、ハム類・惣菜まで幅広い品揃えで店舗展開。
昭和63年(1988年)
新宿マイシティーのレストランを全面改装し、「紗舞璃」へ一新。
新商品「松阪牛特撰しぐれ」一斉販売
平成元年(1989年)
高島屋柏店、千葉そごう、京橋に「焼肉 紗舞璃」をオープン
平成2年(1990年)
はせ甚 麻布本店を改装、リニューアルオープン。
当時は珍しい黒のアルミ格子を使った大胆なデザインを採用。
建築雑誌にも取り上げられる。
平成6年(1994年)
・渋谷パルコに鯛茶漬け「花わらべ」をオープン
・新宿伊勢丹、横浜そごうの食品売り場に佃煮専門店を相次いでオープン
平成7年(1995年)
バブルの影響により、4代目が不動産投資に失敗、会社存亡の危機に至る。
はせ甚・紗舞璃の営業は順調だった中、無念ではありましたが、すべての営業権を他社に譲渡することに。
この時、5代目はいつか再興をという思いで、「はせ甚」の屋号の権利を残すことに成功。
その後・・・
老舗の看板が欲しかった譲渡先での営業は長く続かず、
全てのはせ甚・紗舞璃は全店閉店へ・・・
屋号の権利を持つ5代目の元には、度々「はせ甚」をやらせて欲しいとの話があったが、全て断り続けてきたのも、その時の教訓があってのこと、老舗の看板は他人では守ることはできないと考えたから。
平成31年/令和元年(2019年)
名古屋に紗舞璃 泉店をオープン
はせ甚復興を目指す。